蔦屋重三郎(1067;1067)

蔦屋重三郎(1067;1067)

鈴木 俊幸
読者数: 1
発売日: 2024/10/20
出版社: 平凡社
ISBN: 9784582860672

レビュー (1件)

蔦屋重三郎の生涯を仕事(貸本屋と本屋それと出版)から追った本📕 吉原に生まれ育った蔦屋重三郎は、最初は吉原を足掛かりにした小さな貸本屋から始まった。出版の仕事に関わるのは、鱗形屋の出す吉原細見の改の件から…そして耕書堂(蔦重の店・吉原の近くにあった)として細見を出すようになる。 細見とは…吉原細見はそれを売って利益を出すようなものではなく、廓屋からお金を出してもらって、そこの遊女の宣伝広告の為に出す草子である。出来上がった細見は遊女がお得意様に配ったりするのが主だったようだ。柳澤米翁の宴遊日記にも細見の記事 がある。 初期の頃は他には富本節の稽古本や寺子屋などが 使う教本 庭訓往来等の利益は薄くても長期に渡り 売れる確実な出版物を手がける事で経営基盤を整え た。これは安永中期蔦重二十代の頃でそこから天 明期にかけてブームが起こった狂歌や戯作の絵双子 の出版と関わり狂歌界と持ちつ持たれつの関係性を 築きつつ蔦重という己のブランドを売り出して行く。蔦重と狂歌界との蜜月は天明期でほぼ終わる。 時代は寛成に移り出版統制は所謂寛成の改革で厳 しくなって行く。タッグを組んだ狂歌界も出版という機能が付与された事で熱狂が醒めてしまう。 そして寛政の改革はついに犠牲者を出してしまう。 武士でありながら絵草紙の作者として活躍した恋 川春町は自殺してしまう。朋誠堂喜三二は江戸留守居役を解かれ国許に都落ちする。山東京伝も手鎖の 罰を受ける。蔦重は資産を半分没収された。 しかし、蔦重はそこからも凄かった。問屋仲間の株 買い絵草紙よりも手堅い書物・本の取り扱いを始 めた。寛政の改革により起こった人々の自学ブームに乗ってその頃起きていた国学のブーム本居宣長に 名古屋まで会いに行き名古屋の新興書物問屋とタッグを組んだのだ。この辺は大田南畝の紹介なども あったかもしれん。 逆境にあっても乗り越えるしたたかな商売人の蔦重 も病気には勝てなかった。脚気とも結核とも言われたらしい病により寛政9年に生涯を閉じた。宝暦元 年に生まれた蔦重は47歳という若さで亡くなった。 当時のエンタメの総合プロデュースを成し遂げた蔦 重初代の凄さは養子を取って重ねた3代まで数えるも その仕事は継ぐ事は叶わなかったようだ。因みに、 3代目は名古屋の永楽屋の弟という話があるそうだ。 晩年に縁を結んだ名古屋の書物問屋の線は有りとも 書かれていた。 出版禁止や焚書されても蔦重初代の仕事は私達の目にも残された。彼が育てたとも言える歌麿や馬琴、 彼は確かに後世に誇れる物を残したのだ。かなり 難解な文章で読みにくい作品名だが、作品を通して 蔦重の生涯を見事に紹介してくれていると思う。

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